2019 年 5 月29 日(水)~6 月9 日(日)
こまばアゴラ劇場
脚本・演出:山本健介
出演
須貝英、高橋ルネ、寺内淳志、名古屋愛(無隣館)、善積元、中野あき、湯口光穂(20歳の国)
スタッフ
美術:泉真
音楽:しずくだうみ
音響:田中亮大(Paddy Field)
照明:みなみあかり(ACoRD)
舞台監督:吉成生子
衣装:正金彩
演出助手:寺田華佳
写真:刑部準也
Web・宣伝美術:合同会社elegirl
制作:加藤じゅんこ
総務:吉田麻美
協力:ECHOES
芸術総監督:平田オリザ
技術協力:鈴木健介(アゴラ企画)
制作協力:木元太郎(アゴラ企画)/かまどキッチン
企画制作:The end of company ジエン社 / (有)アゴラ企画・こまばアゴラ劇場
主催:(有)アゴラ企画・こまばアゴラ劇場


基本と拡張とは
ボードゲームの中には、当初発表される”基本セット”と、さらにそのゲームを発展、拡張させた”拡張セット”がしばしば発売される。
基本的には基本セットさえあれば、十分楽しめるが、それをさらに拡張すると、さらに基本から違った側面が出現し、遊びの幅が広がるというものだ。時に別のゲームかのような面白さにもなる。
演劇で、それをやってみたい、と思った。すなわち「同タイトル・同モチーフ・同設定」でありながら、まったく異なる作品を作る、と。
まずは基本公演。4人の俳優で、限られた照明、音響、舞台装置を用い、ミニマムの力で演劇を構成する。
その後、観客からのフィードバックや、公演を通じての反省などを聞き込み、ほぼ同キャストに加えて、追加の俳優をくわえ、新作としてリメイクするのが拡張公演だ。拡張公演は、劇場としての装備を整えた会場で、美術、照明、音響をふんだんに用いて、公演の拡張を図る。
ただ、ボードゲームの基本セットというものは、長く遊んでいると「欠け」が出たりする。
基本セットから、何かは「欠け」るだろう。
その欠けを、拡張はどう、捉えるのか。ゲームであれば、プレイ不可能な状態にもなるだろう。
だが、演劇なら、その「欠け」は、どうなるだろうか。
そのあたりも、考えてみたいのでした。
社長挨拶
未知のボードゲームをするとき、「インスト」と呼ばれる儀式がある。普通にルール説明(インストラクト?)の事なのだけれど、そのゲームについて知っている人が、メンバーにルールを教える。重いゲーム(要素が多くてプレイ時間のかかるもの)だと、インストだけで何十分とかかる事はザラだ。それに、ルールをインストされたとしても、そのゲームが一体何なのか、何が楽しいのかは、実際にゲームをしてみないと分からない事が多い。
あの瞬間、私は何かを期待している。これから始まるゲームについて、何かが、始まるという事について。私は勝てるのかどうか。どうすれば、自分がもっとも楽しく、自分の采配でよい方向に持っていけるのかどうか……。インストが終わって最初の第一手はまよう。何が最適なのか。何がもっとも価値の高い手なのかわからない。分からないまま、エイヤっと、とにかくやってみる。全身で飛び込む。
その、やってみる過程の中で、私たちはゲームに込められた「何か」に、不意に遭遇する。インストの時に予感していた、そしてそれ以上の何かに、ある時、ある瞬間。「これか……」と実感する、「何か」。
ボードゲームプレイヤーにとって、その「何か」を発見する瞬間が、最も楽しい事の一つなんじゃないかな、と思う。
未知のゲームであっても、その何かがきっとある、と信じられること。その信頼が、ゲーマーと呼ばれる人には強くあるのではないか。
それは、信仰といえるものかもしれない。「あらゆるゲームは、ちゃんとプレイすれば、何かある」
だから逆に、ゲームが苦手な人、ゲームができない人、できなくなってしまった人というのは、その信頼がない――なくなってしまった――のではないか。
「ただやってるだけですよ」と、彼ははにかんだようにそういった。「ゲームが好きというか、やってるだけです。まあ、楽しいし。最高の暇つぶしですよ。」と、冷徹に「暇つぶし」と口にする。ゲームをやり込んでいるからこそ、そういう言葉が出てくるのかもしれない。生半可ではない時間を費やしてしまったことからくる、照れというか、自虐というか。でも、ゲームを通じて、彼は幾度となく「何か」に出会ってきた。その過去は変わらない。
信頼はしている。でも、「何か」への遭遇は、いつだって偶発的だ。いつも出会えるかどうかわからない。ゲームへの信頼が崩れてしまう予感は、いつだってある。
好きだから。信頼しているから。何よりも幸せだった過去があったから。これまで出来たから。今だって、わくわくしてるから。でも、「何か」って何なのか。何が素晴らしいのか。いまもそれがあるのか。それを他人に説明するのは、いつだって難しい。「何か」は、きわめて私的な物、いうなれば個性のようなものでもあるからだろう。
「何か」を発見した瞬間は、もしかしたら孤独なのかもしれない。だけどボードゲームをしているときは、隣に人がいるから孤独を感じにくいのかもしれない。それがきっと、ゲームの良さでもある。「何か」を知る瞬間に、隣に誰かがいる。喜びの中に誰かとあれる。
だけど、本当の意味で隣の人と、私的な「何か」を分かり合えるものなのかどうか。隣にいる人と一緒の事をやり、喜び、楽しい。果たしてそれで、「何か」は通じるのか。
そもそも、その「何か」は、拡張すべきもの、皆にわかってもらう必要がある物なのかどうか。
「何か」への遭遇を、感じにくくなっている自分がいる。「何か」への遭遇への信頼が揺らぐことが、増えてきた。
そもそも誰かにわかってもらうためにやっているわけではない。伝わりづらい事をやっている自覚もある。人に伝えようとする――【拡張】への困難と、そこに生じる正しくなさたちに、しりごむこともある。
そんな中でも、私たちが日々生き、他人に出会ったときにはいつだって、「インスト」という儀式をしているのかもしれない。「このゲームは……」「勝利条件は……」「最終的に私は……」。口だけでなく、態度で、顔で、全身で、私たちは隣にいる誰かに対して日々インストをし続けている。生きて、誰かと一緒に、居るために。
そのインストを通じて、他者に「何か」を予感させられることができるのかどうか。自分自身が「何か」への信頼がゆらぐさなか、それでも。
インストは、いわば始まってもいない、スタートに立つ前の儀式だ。映画の『キッズ・リターン』の最後のセリフではないけれど、「もう終わっちゃたのかなあ」と呟いている次の瞬間には、まだ始まっちゃいない、次のゲームへのインストが始まっている。「何か」を予感させる儀式がはじまる。揺らいでも、何も見えなくても、連続する残酷な時間
がすでに身体を食いつくしていても、そこに誰かがいる限り、自分の発するインストで自分も、まだ見ぬ「何か」を期待してしまうんだろうなと、……思っているところです。
本日はご来場いただきありがとうございました。今回もまた、多くの方々にお世話になって、公演にこぎつけました。上演時間は80 分ほどの中量級のゲームのプレイング時間程度ですが、ごゆるりとご観劇いただけたら嬉しいです。どうぞよろしくお願いします。